尾張の下四郡の小大名から日本のほぼ半分を支配下に置くまでとなった織田信長の家臣団は、肥沃な濃尾平野を支配して行く過程から、天下統一事業に至るまで、構成が変わりますが、ここではその変遷をご紹介します。

那古野城主時代から姉川の合戦にかけての構成と変遷とは!

清州城を本拠地に尾張下四郡を領していた織田大和守の三奉行の一人が織田弾正忠信秀で、当初は海東郡の勝幡(しょうばた)城を根拠地としていました。

その後、海東郡の那古野城に進出し、さらに嫡男である信長が生まれると熱田の北古渡(ふきたるわたり)城や末森(すえもり)城を拠点として尾張南部の地固めを行った。

その信秀時代の家臣団構成は不明な点が多いが、天文十一年の小豆坂(あずきざか)の戦いや天文十六年の美濃攻めの際には、一門・一族衆が家臣団の中核となっていた。

一方で、生産力の発達の程度が高い濃尾平野の農村にいた土豪級名主や新名主層の地侍を、与力や若党・被官という名称で直属家臣団の馬廻や小姓に編成していった。

また支配領域の拡大に伴い、嫡男・信長を那古野城に配し、家臣団を分割して支城支配を進めていきました。

天文二十一年(1552年)に信長が跡を継いだ頃の家臣団の構成は、一門衆の長老である大叔父の織田玄播秀敏と飯尾近江守定宗が補佐し、信秀が付属した林秀貞や平手政秀らの附家老と馬廻衆や小姓衆といった直属家臣団が主力でした。

信長は家臣団の編成に関して、特に直属家臣団の育成・強化に力点を置いていたようで、桶狭間前後の戦いにおいては小姓衆や馬廻衆が目覚ましい働きをしています。

永禄十年(1567年)の稲葉山城奪取後、江北の浅井長政との同盟がなり、翌永禄十一年には足利義昭を擁して上洛を果たしました。

その頃の信長は旧斉藤家臣団家臣団を、美濃三人衆といった有力武将として遇する以外に馬廻衆や使番の赤母衣衆に起用するなど、信長直臣団の中核に編成しています。

石山合戦から本能寺前夜までの軍団の構成と変遷とは!

浅井長政の離反により窮地に立った信長でしたが、徳川家康の援助で姉川の合戦に勝利し、翌元亀二年(1571年)には比叡山延暦寺を焼き討ちし、近江坂本城を築いて明智光秀を配置しました。

さらに天正元年(1573年)朝倉義景・浅井長政を滅ぼし、長浜の旧領を羽柴秀吉に与え、近江を完全に掌握、その後越前の一向一揆を平定に成功し、越前には柴田勝家以下を配置し、北陸攻略を進めました。

また天正五年から羽柴秀吉を総司令官として中国平定作戦を開始しましたが、信長自身はその前年の天正四年に安土へ移っています。

こうした状況下で信長は、本願寺攻囲線を度々展開していましたが、この時期の家臣団の特徴は、子息が一門衆の中核となってきたことです。

特に嫡男・信忠は織田氏の本領である尾張・美濃の支配権を与えられ、独自の家臣団編成を進めており、また直臣団の武将から在番支城主が多数生み出され、彼らはそれぞれの地域で、地侍層を与力に編成して被官性を進めていきました。

信長は本能寺の変で非業の死を迎えるが、その時の直臣団は小姓衆を主力とする本当に内輪の集団で、信長の無防備さがうかがわれます。

一方、信忠の直臣団には信長・信忠の弟ら一門衆や馬廻衆など少人数とはいえ一応まとまった構成で、安土の留守部隊には一門衆の織田信益や代官の祖父江秀重や蒲生賢秀など近江出身の直臣層が多数含まれていました。

知勇兼備の浪人大将「森可成(もりよしなり)」

≪生没年・人名≫
大永3年(1523年)~元亀元年(1570年)
三左衛門(さんざえもん)。

≪事績≫
森長可(ながよし)や成利(なりとし)【蘭丸】の父である可成は、美濃出身といわれており、「兼山町史」によると若年の頃に美濃守護・土岐頼芸に属していましたが、天文二十一年(1552年)頃に頼芸が斉藤道三に追放された時の戦で流浪の身になり、間もなく信長に仕えました。

永禄三年(1560年)五月の桶狭間合戦の時には、可成は信長軍の一団に加わり、抜群の戦功を立てたことにより、信長に見出されました。

可成にとってはこれが立身出世の契機となったわけであるから、その戦で着用した鎧は森家重代の宝とされ、今日では森家ゆかりの赤穂市の大石神社に所蔵されています。

永禄十年九月、斉藤龍興の居城であった稲葉山城へ入り、城下の井ノ口を岐阜と改称した信長は、尾張・美濃の国主となっていよいよ本格的に上洛作戦に取り組むことになりましたが、その頃の可成は可児郡兼山城主になっています。

信長による上洛作戦で可成は九月十二日からの箕作城攻めに参加し、翌十二年八月の伊勢大河内城攻略戦にも加わっています。

永禄十三年(元亀元年)四月からの越前朝倉義景攻めでは、四月二十五日の越前敦賀の天筒山攻撃に、柴田勝家・坂井政尚・池田恒興とともに可成も先陣を承って激戦を繰り返して落城させましたが、その際に若干十九歳の嫡子・伝兵衛可隆を亡くしています。

その後浅井長政の裏切りにより撤退した信長軍は、浅井・朝倉・六角の連合軍に備えるため、志賀宇佐山砦に可成、長原城に佐久間信盛、長光寺城に柴田勝家、安土の砦に中川清秀、長浜城に羽柴秀吉を入れて応急の体勢を整え、同年六月十九日には長浜攻めのため岐阜を発ちました。

六月二十八日の姉川の戦いでは、浅井軍八千の猛攻にあって、織田先陣の一番隊・坂井政尚勢が崩れ、二番隊・池田恒興勢、三番・蜂屋勢、四番・佐久間勢も破れましたが、この危機に当たって、五番隊の森可成勢三千は一丸となって浅井勢の猛攻を受け止め、必死で支えたこともあり、信長軍が勝利しました。

同年九月十三日、今度は大坂石山本願寺宗徒や根来・雑賀の一向宗二万余人が信長軍に戦いを仕掛ける一方、石山本願寺と呼応した浅井・朝倉軍は湖北から上洛を目指しました。

そのため、近江宇佐山城にいた可成は浅井・朝倉の大軍を一手に引き受けることになりましたが、可成の手勢は三千人で、どうにも阻止できる状態ではありませんでした。

そこで信長は甥の信治と青地駿河守義綱に兵二千を付けて急派し、可成はその兵を三分割して、宇佐山城兵と、志賀・穴太の伏兵、さらに自身の手勢として大軍を待ちました。

十九日、可成と信治の二将は大軍包囲の中で、朝倉軍の朝倉式部太夫景鏡の隊を攻めたてましたが、逆に浅井対馬・同玄蕃の兵二千に側面攻撃を受け、さらに朝倉中務・山崎出羽守・河波賀三郎の隊にも攻撃を掛けられ、浅井長政の本隊もこれに加わったため、ついに両将とも討ち取られてしまいました。

可成の菩提寺は岐阜県兼山町の金山城下にある大龍山可成(かじょう)寺で、戒名は可成寺殿心月浄翁大居士となっています。

なお、可成は京都の行政に奉行の一員として加わり、嫡子・伝兵衛とともに津田宗久や千利休とも交流をもった文化人でもありました。

織田軍団の水軍の将「九鬼嘉隆(くきよしたか)」

≪生没年・人名≫
天文11年(1542年)~慶長5年(1600年)
右馬允(うまのじょう)、大隅守。

≪事績≫
九鬼嘉隆は、天文十一年(1542年)志摩国英虞郡を拠点とする波切城で、定隆の三男として生まれました。

天文二十年(1551年)、定隆の死去によって、家督は長兄である浄隆が継ぎましたが、永禄三年(1560年)、志摩の地頭のうち十二人が伊勢国司・北畠具教の援助を受けて田城城を攻めました。

嘉隆は城主・浄隆を助けていたものの、浄隆は戦の最中に死亡してしまい、九鬼側は敗退してしまいました。

嘉隆らの残党は朝熊山へ逃亡しましたが、その後滝川一益の仲介によって嘉隆は、桶狭間の戦いに勝利した織田信長に仕えたとされます。

永禄十二年(1569年)、信長が北畠具教を攻めた際、嘉隆は水軍を率いて北畠の支城である大淀城を陥落させるなどの活躍をしたので、正式に織田家の家臣団の一員として迎えられました。

天正二年(1574年)七月、伊勢長嶋一向一揆討伐の際は、水軍を率いて海上から射撃を行うなどして南伊勢の北畠氏を継いだ信雄(のぶかつ)を援護し、敵陣攻略に活躍しました。

天正四年(1576年)、石山本願寺側についた毛利水軍600隻に対して、織田水軍は300隻にて摂津・木津川沖で戦いましたが、多くの船を焼かれて敗戦を喫しました【第一次木津川口の戦い】。

この敗戦に怒り狂った信長は、嘉隆に対して燃えない船を造るように命じた結果、嘉隆は船に鉄を貼った鉄甲船を建造しました。

天正六年(1578年)十一月、伊勢大湊で建造した甲鉄船六隻を回航し、大阪救援に来た毛利水軍を撃ち破り、大阪湾の制海権を握りました【第二次木津川の戦い】。

嘉隆はこの功によって、信長から志摩七島に加え、摂津野田・福島などの七千石を加増され、合計三万五千石を領する大名となりました。

その後も嘉隆は堺の津に駐在していましたが、天正七年正月に安土で年賀を済ませると暇を賜り、下国を許されたうえ、さらに茶の湯も許され、同年十二月八日には津田宗久らを招き茶会を開いています。

天正十年(1582年)六月、信長が本能寺の変で死去した後、織田信雄に仕えましたが、天正十二年(1584年)の小牧・長久手の戦いの際に滝川一益の誘いによって羽柴秀吉に寝返り、松ケ島城の海上封鎖、三河国沿岸の襲撃、蟹江城の合戦に参加しています。

同年、蒲生氏郷が南伊勢に配されると嘉隆は氏郷の与力として配属されるが、その後も秀吉軍の水軍の頭領として重用され、天正十五年(1587年)の九州征伐や、天正十八年(1590年)の小田原合戦などで活躍しました。

慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いのときは、子・守隆(もりたか)と別れて西軍に属し、どちらが負けても家名を存続されるという方針をとりました。

守隆が徳川家康に従って会津征伐に赴いている間に、鳥羽城を落とし、八月二十四日の安濃津城の戦いの勝利にも貢献しましたが、九月十五日の本戦で西軍が敗れると、鳥羽城を放棄して答志島に逃亡しています。

守隆は家康と会見し父の助命を嘆願し、守隆の功績に免じて認められましたが、守隆の急使がそれを嘉隆に伝える前に九鬼家の行く末を案じた家臣の勧めによって自害し五十九歳の生涯を閉じました。

飛騨を平定した「金森長近(かなもりながちか)」

≪生没年・人名≫
大永5年(1525年)~慶長13年(1608年)
五郎八(ごろはち)、兵部卿法印(ひょうぶきょうほういん)。

≪事績≫
金森氏は美濃源氏土岐氏の支流で、応仁の乱にて西軍として活躍した美濃守護・土岐成頼の次男である大桑定頼の次男・金森定近が一族を連れて美濃を離れ、近江国野洲郡金森に居住し、金森采女を称したことに始まりました。

大永四年(1524年)金森長近は、金森定近の次男として美濃国に生まれ、信長に仕えたのは早く、始めは可近と名乗りましたが、信長から偏諱(へんき)を与えられ長近と改めました。

馬廻りで赤母衣衆の一人でしたが、小部隊指揮官といったところで、天正三年(1575年)五月の長篠の戦いでは、徳川家康の臣・酒井忠次(ただつぐ)とともに鳶巣(とびのす)砦を攻略し、その戦功によって刀を授けられました。

同年八月、温見峠越えをして越前大野入りした長近は、越前一向一揆殲滅(せんめつ)し、その功によって越前大野郡の三分の二を与えられました。

その後、柴田勝家の北陸方面軍に属しましたが、天正六年信長に反逆した荒木村重征伐に従軍し、天正七年十二月には村重一族成敗の奉行となりました。

天正九年三月には越中に出兵し、天正十年(1582年)の武田勝頼征伐には飛騨口の大将を務めるなど信長の直参として高い地位にありました。

同年二月、従四位下・兵部大輔となり、その後四位下兵部卿となるが、本能寺の変で信長が家臣の明智光秀に討たれ、嫡子・信忠とともに討ち死にすると、剃髪して兵部卿法印素玄と号しました。

その後、羽柴秀吉と柴田勝家が対立すると柴田側に属し、天正十一年(1583年)、賤ヶ岳の戦いで、当初は勝家陣営で秀吉に対峙していましたが、前田利家と行動を共にした長近は、戦わずして敗走し、秀吉の傘下に入りました。

以後、羽柴秀吉の下で、飛騨に侵略、三木(みつぎ)氏を滅ぼし、飛騨を平定させ、天正十四年(1586年)に飛騨一国を宛がわれて、高山を居城としましたが、それが現在でも観光地として名高い「飛騨高山」となります。

禅宗と茶道に造詣が深く、文禄三年(1594年)頃には秀吉の御伽衆を務めていた長近ですが、慶長五年(1600年)、関ヶ原の合戦では養子・可重とともに東軍に与し、戦後美濃などにも所領を得て、六万千石を領しました。

その際、戦に勝利した徳川家康を大津の陣に訪問した本願寺教如が、長近に宛てた文書が近年発見され、教如上人を家康に紹介したのが長近であったことが判明しましたが、このことが後の慶長十三年(1608年)本願寺の東西分立に繋がることになりました。

長近は、その後京都伏見にて八十五歳でその生涯を閉じ、法名は金龍院要仲素玄で、墓所は大徳寺金龍院になります。

長近は、蹴鞠や茶の湯の才にも恵まれており、秀吉が伏見在城の時は伏見城下の自宅に書院と茶亭を作り、しばしば秀吉を招きました。

さらに茶の湯の宗匠・千利休の弟子として茶会に招かれたり、宗匠・古田織部とも親交があり、家康・秀忠親子からは「気相の人」といわれて信頼されていました。

忍び出身の異将「滝川一益(たきがわかずます)」

≪生没年・人名≫
大永5年(1525年)~天正14年(1586年)
左近将監(さこんのしょうげん)、伊予守(いよのかみ)。

≪事績≫
織田信長が、「天下布武」の大号令の御旗を掲げ、全国の武将に対し、鶴翼の陣形をなしたとすれば、信長に仕える武将の中で、双翼を遠国にあって受け持ったのは、中国方面の司令官・羽柴秀吉と関東方面の司令官・滝川一益でした。

しかし一益は、信長による有名な数多くの戦功を戦いには参加できず、地味な戦いを受け持ったため、後輩武将にどんどん追い抜かされ若くして信長四天王の一人と呼ばれながら、不運な晩年を送った武将でした。

その一益の滝川家は、三河・伴氏の一党で、系図によると伴善夫(とものよしお)の末裔で、奥三河河合で設楽・富永氏を名乗り、建仁年中(1201〜1204年)に甲賀・伴氏を頼り、甲賀に住みつきました。

その後この一族は、勢力を伸ばし、伴四党(伴・滝・上野・大原)とよばれて、活躍しました。

一益の父・伴資清は、甲賀に五反田城を構え、大永五年(1525年)一益を儲けたが、その一益は若くして智・武にたけ、特に射銃に優れていました。

一益は、近江守護六角氏に信長との内通を察知され、甲賀を去りましたが、その後信長に知勇を見込まれ侍大将となって、常に先方に列するようになりました。

永禄十年(1567年)信長の命により、先方となって伊勢国・北畠具教を攻め、諸砦を落とし、翌十一年には征勢総督となって、蟹江城を居城としています。

一益は天正三年の「長篠の役」にも従軍し、その戦では一益も鉄砲隊を駆使して活躍し、その一益隊を含む信長軍の鉄砲三千挺が武田軍を打ち砕きました。

信長はその戦功をねぎらうため、天正六年に功臣十人を黄金色に輝く壮大な安土城に招いて茶を供し、さらに信長は自ら家臣を送迎し、饗宴していますが、一益はそのうちの一人で、この時が一益の生涯の中で一番輝かしい時期でした。

天正十年(1582年)二月二日、武田勝頼が木曽義昌を攻めると、信長はすぐさま徳川氏・北条氏らと攻め込みますが、一益も参加し毛利秀頼や河尻鎮吉らとともに、織田信忠の先方として木曾口に向かいました。

同年三月、信長は武田氏を攻めるに当たっては、一益を毎戦陣頭に立て、てこずる城もありましたが、一度も退かない戦ぶりは信長を感心させました。

武田氏を滅亡させた信長は、その褒賞として一益に上野国および信州小泉・佐久ニ郡を与え、上野国厩橋城(前橋)に居城を命じ、さらに関東管領・山東および奥羽諸将の討伐を一益に任せました。

しかし天正十年六月七日、信長の本能寺での凶報が飛脚によって届けられると、敵対してきた北条氏と東国部将を率いて戦いますが、敗れて伊勢に戻っていきました。

その後、柴田勝家に味方して、台頭してきた羽柴秀吉と賤ヶ岳で戦う間、一益は北伊勢の長島城で抵抗を続けるが、勝家が敗れて越前に敗走し、織田信孝とともに滅びると、一益も力尽きて秀吉の軍門に降りました。

最終的に一益は、京都の妙心寺で髪を剃り入庵し、越前にて蟄居ののち、天正四年に五分一邑で標死し、六十四歳の人生を終えました。