≪生没年・人名≫
?~天正4年(1576年)
正勝、重友、九郎右衛門(くろうえもん)、賜姓、任官して原田備中守。

≪事績≫
初め姓は塙(ばん)と称し、尾張国春日井比良村出身といわれ、はじめは信長の馬廻りで、赤母衣衆の一人でしたが、信長が岐阜に移るのに伴って岐阜に移り住みました。

永禄十一年(1568年)九月には信長の上洛に従い、京都の政治に関与し、吏僚として畿内の政務を担当しています。

また直政の妻は柴田勝家の娘、妹の直子は信長の側室で、信長の庶長子・信正の母親ともいわれています。

そんな直政は蘭奢待下賜の際に御奉行(監査役)を務め、天正二年(1574年)五月には山城の守護に補され、ついで翌三年(1575年)三月には大和の守護も兼ねて二か国を支配していました。

さらに全盛期にあっては上記の通り、全権を任されたわけではないにせよ南山城・大和の二か国の統治権に加えて、河内国の城割を行うなど同年代の宿老クラスである柴田勝家に勝るとも劣らない三か国に及ぶ広い範囲の支配権を持っていました。

もちろん原田直政は戦でも働いており、対石山本願寺攻め、伊勢長島攻め、高島城の戦い、越前一向一揆征伐にも従軍し戦功を立てています。

「信長公記」によると天正三年五月の長篠の戦いでは、佐々成政・前田利家・野々村正成・福富秀勝とともに鉄砲奉行に任じられたとされています。

天正三年には信長の奏請によって、羽柴秀吉・明智光秀・梁田広正らと共に叙任されて備中守に任ぜられ、さらに原田姓を賜りました。

ちなみに原田姓は九州の名族であり、同様に丹羽長秀は惟住姓、明智光秀は惟任姓、といったいずれも九州の名族の姓を賜っています。

そして直政は、翌天正四年(1576年)から明智光秀・荒木村重・細川藤孝・三好康長らと共に石山本願寺攻撃の主力となって出陣しました。

村重は尼崎より海路をとって北野田の砦を抑えて河川を封鎖し、光秀と藤孝は森口(現在の守口)と森川に砦を構え、直政は天王寺の要害を固めました。

逆に本願寺側は、楼岸・木津に砦を構えて難波口からの海路を確保していましたが、信長はこの両砦の攻略を命じました。

その命を受け、佐久間信盛は天王寺砦に詰め、両砦への攻撃には第一陣として三好康長と根来衆、第二陣は直政と大和・山城衆という編成であたりました。

しかし本願寺側ではこの動きを事前に察知し、雑賀衆の鈴木重秀が率いる伏兵が待ち構えていたため、木津砦に攻寄ろうとしていた三好康長はあえなく撤退しています。

一方、直政は康長の撤退後も何とか踏みとどまっていましたが、本願寺側から僧兵が攻め寄せてきたため総崩れとなり、直政も伯父・安広や弟・小七郎など一族内の有力な武将とともに乱戦の中で戦死しました。

直政の死によって戦線の崩壊という危機が織田軍に迫りましたが、信長自ら援軍を率いて駆けつけ、足に銃創を負うほどの奮戦によって戦線は再び持ち直されました。

この戦ののち、生き残った直政の一族は敗戦の責任を信長に取らされる形で没落していきました。

なお、直政の戒名は全巧とつけられ、、墓所は尾張大野木の福昌寺に残っています。