≪生没年・人名≫
?~天正5年(1577年)
弾正忠(だんじょうちゅう)、弾正少弼(しょうひつ)、山城守。

≪事績≫
戦国時代梟雄といわれた松永久秀は、最初、三好長慶(ながよし)の武将として、活躍するが、十三代将軍・足利義輝(よしてる)側近の側面も持ち京都の政務も担当していました。

永禄三年(1560年)二月に弾正少弼に任じられ、同四年には幕府相伴衆(しょうばんしゅう)に昇進し、将軍・足利義輝より長慶親子と同じ桐の紋章の使用を授与されています。

永禄二年に大和に入国し、信貴山(しぎさん)城とともに、奈良に多門山(たもんやま)城を築き、同五年八月一国徳政令を施行した頃、多門山城の棟上式を設け、奈良の市民に自らの権威を示しました。

長慶の死後、永禄八年五月には義輝を三好三人衆とともに襲撃してこれを殺害しましたが、しかし次第に三人衆との対立が始まり、永禄九年畠山氏と結んで、河内・和泉方面で戦ったが大敗し、一時身を隠していました。

この間、三人衆に擁立されていた長慶の養子・義継(よしつぐ)を離間させ、自らの旗頭として擁立しました。

以後、永禄九~十一年まで、三人衆や大和の有力勢力・筒井氏の攻撃から多門山城を死守し、永禄十年には東大寺大仏殿を急襲して炎上させ、三人衆に打撃を与えましたが、再び三人衆の部隊が増援され、危機を迎えました。

そのため、早くから織田信長ら、畿内以東の武将と気脈を通じて、足利義昭の擁立に動き、逆境を打開しようとしました。

永禄十一年九月に信長によって義昭が奉じられて上洛すると、久秀はこれに馳せつけ、名物の茶入・九十九茄子(つくもなす)を信長に献上して、恭順の意思を示し、以後久秀は大和の衆徒・国民の制圧にあたり、同十二年四月には山城守に補任しました。

元亀元年(1570年)の争乱で、久秀は三人衆方と対峙しましたが、十一月に信長の和平工作に従って、久秀の娘が信長の養女となり三好方に嫁ぎ、三人衆と和解することになりました。

この間も、大和の筒井氏との戦いが続きましたが、元亀二年八月の辰市(たついち)合戦において筒井順慶に大敗を喫し、久秀の大和制圧は困難になりました。

同四年頃から、義昭の反信長戦線になびき、武田信玄(晴信)・朝倉義景・浅井長政・本願寺と結びました。

しかしながら、義昭の挙兵に呼応することも出来ず、天正元年(1573年)十二月に信長に降伏し、手塩にかけて築いた多門山城を明け渡し、以後は信貴山城を拠点としました。

天正四年には、信長による大坂本願寺攻めに参陣し、天王寺定番を務めたが、同五年に突如信貴山城に戻り、信長に背いて籠城の準備を始め、謀反しました。

再度の久秀の背信対して、信長は嫡男・信忠を総大将としてこれを攻めさせ、名物・平蜘蛛(ひらぐも)の釜を差し出すことを条件に降伏を迫りましたが、久秀は「平蜘蛛の釜とわれらの首のふたつは信長公にお目にかけようとは思わぬ、鉄砲の薬で粉々に打ち壊すことにする」と返答しました。

そして久秀は平蜘蛛を叩き割って天守に火を放ち自害しましたが、その首は安土へ送られ、遺体は順慶によって達磨寺へ葬られ、68歳の生涯を終えました。

久秀が自害した日は、10年前に東大寺大仏殿が焼き払われた日と同月同日であったことから、兵は春日明神の神罰が下ったのだと噂しました。