≪生没年・人名≫
?~天正9年(1581年)
半羽介(はばのすけ)、右衛門尉(うえもんのじょう)。

≪事績≫
織田信長が尾張時代からの奉行に列する有力家臣だった佐久間信盛は、永禄三年(1560年)の桶狭間の戦いでは善照寺砦を守備し、今川軍の兵二百を討ち取る功を立てました。

同十年五月、信長の息女・五徳が徳川家康の嫡男・信康に嫁いだ際、警護して三河の岡崎まで供奉しており、翌十一年九月の上洛に従って、各地に転戦したほか、京都の政治にも関与しています。

そんな彼は、柴田勝家と並んで織田家の両翼とされた武将で、羽柴・明智・丹羽・滝川より一段上の存在だった。

また元亀三年(1572年)十二月の三方ヶ原の戦いには、信長の命により家康の援軍として遠江まで遠征するが、織田家重臣の平手汎秀らを戦死されるほどの惨敗に終わりました。

ただ天正二年(1574年)七月の伊勢長島一向一揆攻め、翌三年八月には越前一向一揆攻めに従軍し、その後翌四年五月には戦死した原田直政の跡を受けて天王寺砦に入り、本願寺攻めの責任者になっています。

この間、三河刈谷城主の水野信元を讒訴して、その旧領を与えられた結果、信盛は尾張・三河・大和・河内・和泉・紀伊の七か国に与力を付けられ、織田家家臣団の中ではもっとも有力な軍団となりました。

しかしながら四年間にわたる本願寺包囲策が失敗に終わり、同八年八月にその無策を信長に譴責され、息子の信栄とともに高野山へ追放処分となり、小坂坊に隠遁しました。

その追放の理由を信長は自筆でしたためましたが、その条文は十九か条からなり、各条目の内容も信盛の行跡万般を子細に列挙したもので、実に詳しく述べられています。

それらの条文は、いずれも信盛が、彼の讒言で処罰された水野信元の跡職を相続した天正三年から、この年に至るまでの五年間の行状を非難したものです。

基本的には武将の本道である「武辺」の怠慢を詳細に指摘した内容ですが、十一条から十七条にかけては、さらに遠く遡って実にこと細かに手厳しく信盛を非難しています。

さらには信盛自身ばかりか、息子の信栄の人格にまで「欲深く、気むさく(気むずかしく)」と批判を加え、三十年来の信盛の奉公ぶりを具体的に挙げながら酷評して、目立った功績は皆無だと決めつけています。

また追放のもうひとつの理由として茶事の耽溺が挙げられているが、当時の茶会記に親子の名前が頻出しているもの事実でした。

このように佐久間親子に弁明の余地を全く与えない内容ですが、最後の十八・十九の両条では、彼らの未来について一縷の除みを与えています。

それは(1)どこかの敵を倒して会稽の恥を雪ぎ、再び帰参するか、または討ち死にするか、(2)親子揃って髪を剃り、高野山に隠遁して赦免を待つ、の二つにひとつの選択を迫り、これを受けなければ二度と赦免はない、というものです。

今回の信盛の追放によって軍団が解体されるが、これを機会に織田軍団は再編成され、明智や羽柴の率いる方面軍が生まれました。

追放された信盛は剃髪して夢斎定盛と称しましたが、結局赦免はされず、その翌年大和の十津川で湯治中に病没、法名は洞無桂巌で墓所は大徳寺高東院になります。