≪生没年・人名≫
?~天正10年(1582年)
十兵衛、惟任(これとう)日向守。

≪事績≫
信長の家臣になったのは、永禄十一年(1568年)の上洛直前で、越前国・一乗谷城の朝倉義景に身を寄せていた次期将軍・足利義昭の上洛を実現するために岐阜へ出向いて信長に上洛を促したのがきっかけです。

永禄十一年九月、信長は義昭を奉じて上洛し、翌十月に義昭が第十五代将軍になりましたが、光秀も義昭の近臣として将軍の申次、幕府の奉行人などの役目を果たす一方で、信長の客員部将としてその指示を受ける立場にもありました。

それは村井貞勝と一緒に京都とその近辺の行政にあたっていることから分かる通り、京都・畿内に通じており、義昭の将軍政治と信長の武断政治とが表裏する二重の政治の仲介者にならねばならなかったためです。

光秀に大した戦功があったわけではないのに、元亀二年(1571年)近江の志賀郡と、現在の大津市錦織にあった宇佐山城を与えられ、同年九月に信長が比叡山延暦寺を焼き討ちにしたあとには、琵琶湖岸の坂本の地に築城を始めました。

知行もそれまでの三千貫から一挙に五万石に引き上げられ、大名の列に加わることになりましたが、この事は奉行として卓越した能力の持ち主であったことが知れると同時に、信長の信任のほどがうかがわれます。

また併せて、将軍・義昭の直臣であった光秀が、義昭のもとを離れて信長の一部将になったことを意味していました。

天正三年(1575年)六月、信長は丹波・丹後の平定を光秀に命じましたが、今まで行政的な仕事に従事することが多かった光秀がこの時期からは軍事に参与する武将になりました。

信長は冷徹な性格の持ち主で、譜代の臣といえども容赦しない野人の振る舞いが多かったが、この欠陥を補って信長を天下人たらしめたのが、光秀と秀吉でした。

諸所に歴戦し、先ほども述べたように、志賀郡五万石を元亀二年九月に領し、その後丹波一国二十九万石を加えて、とんとん拍子に出世した光秀は、ついに畿内方面軍司令官の地位を極めていきました。

そんな光秀最後の晴れ舞台となったのが、天正九年二月二十八日、京都で行われた馬揃えで、「信長公記」によると、信長以下五畿内および隣国の大名・小名・御家人を召し寄せ、駿馬を集め、正親町天皇の臨御を仰いで叡覧に供し、公家衆も大勢臨席しましたが、光秀はこの晴れの馬揃えの奉行を務めたのです。

ただ最後は主君である信長と齟齬を生じ、その理由は四国政策をめぐる対立という見方が有力ですが、その他に彼はすでに六十七歳の老齢なのに対し、嫡男はわずか十三歳だったというのが要因のひとつだったという説もあります。

天正十年(1582年)六月二日に本能寺の変を起こして信長・信忠を斃したが、ほどなく山崎の戦で敗れ、居城の坂本城へ逃れる途中土民に討たれました。

最後に付け加えると、歴史学者や作家の中に、光秀は信長と同じように明智の家名を上げ、その上、天下をわが手に収めたい野心を持っていた、などというような光秀像を抱く人が多くいます。

しかしながら光秀自身には将軍や信長を凌いで天下人になろうなどという野心は持っておらず、足利将軍家と室町幕府の再興および戦乱の世の終結を願っていたと思われます。