≪生没年・人名≫
天文5年(1536年)~天正14年(1586年)
信濃守、摂津守。道薫(どうくん)。

≪事績≫
荒木村重は天文四年(1535年)に生まれ、摂津・池田勝正に仕え、池田二十一人衆の一人でした

永禄十一年(1568年)九月、織田信長は足利義昭を奉じて入洛し、十数日のうちに三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)の諸城を含めて山城・摂津・河内・大和を一応平定しました。

摂津には帰順した芥川城の和田惟政、伊丹城の伊丹親興、池田城の池田勝正を三守護としましたが、村重は勝正に属していたので、間接的に信長の配下に入ったことになりました。

元亀元年(1570年)六月、村重は池田勝正を見限り家中の中川瀬兵衛清秀とも相談して、自分の主人である池田勝正を追い出し、その後池田の一派として阿波へ使者を送って上洛の機を持つと注進するなど三好三人衆と手をつなぎました。

さらに年来仲が悪く小競り合いを繰り返していた和田惟政と合戦となり、荒木方の中川清秀が惟政の首を獲り、村重自身は茨木佐渡守を討ち取り、茨城城を手に入れ、さらに勢力を拡大しました。

元亀四年(1573年)三月二十九日、信長の入洛の際に、村重は細川藤孝と共に逢坂まで出迎えて忠節を誓い、信長も大いに喜んで両人に太刀を与えています。

この年、信長と足利義昭の対立は決定的となり、義昭はひそかに本願寺らと組んで信長の討伐を企て、七月三日填島城に挙兵しましたが、村重が羽柴秀吉や明智光秀らと共に填島城を攻略した結果、義昭は信長に屈し、室町幕府は滅亡しました。

その後、村重は高山右近とともに石山本願寺の出城・中島砦を攻撃して勝利を得て、伊勢長島で一向一揆と戦っていた信長から村重の勝利を喜ぶ手紙を貰っています。

天正と改元後の十一月十五日、村重は信長の命によって、伊丹親興を攻めて伊丹城を陥れ、有岡城と改名し、摂津の大名に成り上がった村重は有岡城主として確固たる地位を築くと共に、信長の配下としてますます活躍することになりました。

天正六年正月朔日、信長は主だった武将十一名を安土に召し茶会を催し、村重も列席しており、この年は信長麾下の武将としてもっとも栄光の時であったとともに、栄光から反逆への転機の年でもありました。

同年十月二十一日、安土の信長に対して方々より村重謀反の報が届きましたが、信長にとっては青天の霹靂で、いったい何の不足の謀反なのかがわからず信長には信じられませんでした。

村重にしては、信長に対して様々な負い目を感じており、それが徐々に信長の残酷な行動に対する批判へと変わっていったと思われます。

信長は有岡城攻撃を始めますが、容易に落ちず持久戦となったものの、村重としては当てにしていた毛利の援軍が来る気配もなく、毛利の援軍を乞うため、五~六人の従者とともに尼崎城へ移動しました。

城主がいなくなった有岡城では、裏切者が出て謀反を起こし、敵を城内に率いれたため、一族の荒木久左衛門など主だったものが妻子を人質として、尼崎城・花熊城を差し出せば妻子は助ける、という敵の条件を伝えに村重のもとに向かいました。

しかし村重は久左衛門らを何にも入れなかったため、彼らは今更有岡城へ帰ることも出来ず蓄電してしまい、一族郎党はことごとく虐殺されています。

毛利を頼って落ち延びていた村重は、信長没後、村重は秀吉に召し出され、天正十四年に没するまで茶人・道薫として余生を送っています。