≪生没年・人名≫
天文3年(1534年)~慶長15年(1610年)
幽斎(ゆうさい)、幼名・万吉、与一郎、兵部大輔(ひょうぶのたいふ)。

≪事績≫
室町幕府の幕臣・三渕晴員(みつぶちょはるかず)の次男、また藤英の弟である細川藤孝は、晴員の兄・細川元常(もとつね)の養子になり、さらには十三代将軍・足利義輝(よしてる)の御供衆となって、偏諱(へんき)を受けて藤孝を名乗りました。

永禄八年(1565年)五月十九日、将軍・義輝が松永久秀・三好三人衆に襲殺されると、当時、非番のために勝竜寺(しょうりゅうじ)城に詰めていた藤孝は急行したが、間に合いませんでした。

ただ、当時藤孝が勝竜寺城主だった事実を確認することができず、脚色の可能性が高いといわれています。

それ以後、藤英や一色藤長(いっしきふじなが)らとともに義輝の弟・覚慶(かくけい)【のちの十五代将軍・義昭(よしあき)】を奈良から脱出させ、将軍への擁立のために越前の朝倉氏に匿いました。

その後も奔走(ほんそう)を続け、永禄十一年九月、織田信長に奉じられた義昭とともに入洛し、将軍の側近として室町幕府の再興に務めました。

元亀二年(1571年)に西岡の一職(いっしき)支配を任され、勝竜寺城を拡張し、西岡の土豪たちを管轄下に置く一方、独立志向の強い物集女(もずめ)氏を城へ呼び出し誘殺しており、さらにまた、地域名の「長岡」を名乗って、以後もこれを踏襲しています。

天正元年(1573年)、義昭が信長と対立すると、義昭に近侍していた明智光秀とともに義昭を見限り、信長傘下に入りましたが、光秀の娘・玉【細川ガラシャ】が嫡男・忠興(ただおき)に輿入れしたのはこの頃になります。

また、元亀三年から天正二年(1574年)にかけて三条西実枝(さんじょうにしさねえだ)が「古今和歌集」の秘説を藤孝に講釈し、その歌道の後継者となっています。

以後も光秀の与力となって信長の統一戦線に従軍し、主として山陰地方の平定に従い、天正八年、丹後へ国替えとなり、宮津を居城としました。

そして嫡男・忠興に家督を譲り、幽斎(ゆうさい)と号しましたが、信長はそんな幽斎・忠興と、従来の丹後国守護・一色五郎を並立させる「両旗」体制を採用し、互いに牽制させました。

天正十年、本能寺の変が起こると、光秀からの誘いを断り、忠興とともに元結を下ろし、さらに忠興は光秀の娘・玉と一時別れていましたが、その一方で幽斎は一色五郎を宮津城で誘殺し、信長が採用した「両旗」体制を清算しています。

本能寺の変という逆境を、したたかに自己の領国強化に転用した幽斎ですが、のちの関ヶ原合戦の際は、東軍方に味方し、田辺(たなべ)城で西軍の攻撃を受けましたが、古今伝授の才能を惜しまれ、後陽成(ごようぜい)天皇から開城勧奨の勅使が出されました。

東軍の勝利後、忠興とともに豊前に移りましたが、以後も京都との間を往復し、文化人との交流を続けています。

幽斎がなくなったのは京都で享年は七十七歳、法名は泰勝院撤宗玄旨で、南禅寺天授庵に葬られています。