≪生没年・人名≫
大永5年(1525年)~天正14年(1586年)
左近将監(さこんのしょうげん)、伊予守(いよのかみ)。

≪事績≫
織田信長が、「天下布武」の大号令の御旗を掲げ、全国の武将に対し、鶴翼の陣形をなしたとすれば、信長に仕える武将の中で、双翼を遠国にあって受け持ったのは、中国方面の司令官・羽柴秀吉と関東方面の司令官・滝川一益でした。

しかし一益は、信長による有名な数多くの戦功を戦いには参加できず、地味な戦いを受け持ったため、後輩武将にどんどん追い抜かされ若くして信長四天王の一人と呼ばれながら、不運な晩年を送った武将でした。

その一益の滝川家は、三河・伴氏の一党で、系図によると伴善夫(とものよしお)の末裔で、奥三河河合で設楽・富永氏を名乗り、建仁年中(1201〜1204年)に甲賀・伴氏を頼り、甲賀に住みつきました。

その後この一族は、勢力を伸ばし、伴四党(伴・滝・上野・大原)とよばれて、活躍しました。

一益の父・伴資清は、甲賀に五反田城を構え、大永五年(1525年)一益を儲けたが、その一益は若くして智・武にたけ、特に射銃に優れていました。

一益は、近江守護六角氏に信長との内通を察知され、甲賀を去りましたが、その後信長に知勇を見込まれ侍大将となって、常に先方に列するようになりました。

永禄十年(1567年)信長の命により、先方となって伊勢国・北畠具教を攻め、諸砦を落とし、翌十一年には征勢総督となって、蟹江城を居城としています。

一益は天正三年の「長篠の役」にも従軍し、その戦では一益も鉄砲隊を駆使して活躍し、その一益隊を含む信長軍の鉄砲三千挺が武田軍を打ち砕きました。

信長はその戦功をねぎらうため、天正六年に功臣十人を黄金色に輝く壮大な安土城に招いて茶を供し、さらに信長は自ら家臣を送迎し、饗宴していますが、一益はそのうちの一人で、この時が一益の生涯の中で一番輝かしい時期でした。

天正十年(1582年)二月二日、武田勝頼が木曽義昌を攻めると、信長はすぐさま徳川氏・北条氏らと攻め込みますが、一益も参加し毛利秀頼や河尻鎮吉らとともに、織田信忠の先方として木曾口に向かいました。

同年三月、信長は武田氏を攻めるに当たっては、一益を毎戦陣頭に立て、てこずる城もありましたが、一度も退かない戦ぶりは信長を感心させました。

武田氏を滅亡させた信長は、その褒賞として一益に上野国および信州小泉・佐久ニ郡を与え、上野国厩橋城(前橋)に居城を命じ、さらに関東管領・山東および奥羽諸将の討伐を一益に任せました。

しかし天正十年六月七日、信長の本能寺での凶報が飛脚によって届けられると、敵対してきた北条氏と東国部将を率いて戦いますが、敗れて伊勢に戻っていきました。

その後、柴田勝家に味方して、台頭してきた羽柴秀吉と賤ヶ岳で戦う間、一益は北伊勢の長島城で抵抗を続けるが、勝家が敗れて越前に敗走し、織田信孝とともに滅びると、一益も力尽きて秀吉の軍門に降りました。

最終的に一益は、京都の妙心寺で髪を剃り入庵し、越前にて蟄居ののち、天正四年に五分一邑で標死し、六十四歳の人生を終えました。