≪生没年・人名≫
天文6年(1537年)~慶長3年(1598年)
藤吉郎(とうきちろう)、筑前守(ちくぜんのかみ)。

≪事績≫
尾張国愛知郡中中村で、織田信秀の足軽だった父・弥右衛門と母・なか(大政所)との間に生まれた羽柴秀吉の少年期の有名な話はほとんど作り話ですが、ただ浜松の久能(くのう)城主・松下加兵衛(之綱)に仕えたのは事実のようで、後年天下人になってから之綱を厚遇しました。

天文二十三年に尾張に帰り、この頃織田信長に小者として仕えたと推定されますが、詳細は不明ですが、永禄四年(1561年)八月三日に正室・おね(北政所)と結婚しています。

永禄八年十一月二日には美濃国松倉城の坪内利定に与えた信長の知行安堵状に秀吉が副状を出していますが、これが「木下藤吉郎秀吉」の署名のある文書の初見となります。

永禄十二年四月には明智光秀と共に京都奉行を務め、この頃から発給文書も増加しており、元亀元年(1570年)四月には、越前に侵攻した織田軍撤退の殿(しんがり)軍を務め、武将としての名声を挙げました。

同年六月の姉川合戦以降は、横山城城番として、対浅井への戦略を一手に引き受け、天正元年(1573年)の湖北領有後は、城を今浜に移し城下町を造成して「長浜」と改名し、天正三年から本能寺の変まで七年間在城しました。

この間、信長の天下統一への先兵として出陣する一方、その合間を縫って領内を巡見し、算勘の才のある者や、武術に秀でた者などを見出して家臣としていきました。

天正五年十月から信長の命で中国計略にあたりましたが、天正十年に備中高松城で毛利氏と対陣中、本能寺の変が勃発すると、毛利氏と講和を結び反転して明智光秀を山城・山崎で撃破し、信長の後継者として名乗りを挙げました。

天正十一年、賤ヶ岳合戦で柴田勝家を破り、大坂城を築城し本拠とする一方、天正十二年の小牧長久手の戦いでは、局地戦で徳川家康に敗れるものの、戦略で圧倒して講和を結び、その後臣従させています。

天正十三年、元関白・近衛前久(このえさきひさ)の猶子(ゆうし)となって、四国を平定し、その後は越中や越後、飛騨から信濃に勢力を伸ばし、天正十四年には太政大臣(だじょうだいじん)に任じられ、豊臣姓を賜りました。

天正十五年に島津を破って九州を平定し、天正十六年四月には聚楽第(じゅらくだい)に後陽成(ごようぜい)天皇を迎えて、各大名から起請文(きしょうもん)を取ることによって政権の基盤を固めています。

同年七月には刀狩令と海賊取締令を出し、天正十八年、小田原の陣で北条氏を降して事実上天下統一を完成させました。

なお、天正十九年に関白職を養子・秀次に譲って、以後は太閤と呼ばれた秀吉の大陸侵攻構想は関白就任時から存在し、文禄元年(1592年)と慶長二年(1597年)の二度朝鮮出兵を実行しました。

戦闘中の慶長三年八月十八日、伏見城で死去し六十二歳の生涯を終えた秀吉の辞世は「つゆとをち、つゆときへにしわかみかな、なにわのことも、ゆめのまたゆめ」でした。

天正四年に洛東・東山の阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)西麓に造営された廟所に葬られ、豊国社(ほうこくしゃ)が造られましたが、さらに朝廷から豊国大明神の神号を追贈されています。