≪生没年・人名≫
天文6年(1537年)~慶長4年(1599年)
犬千代、又左衛門、筑前守。

≪事績≫
十四歳で信長の近習となり可愛がられましたが、青年時代の利家は血気盛んで槍の又左衛門(槍の又左)などの異名をもって呼ばれており、弘治2年(1556年)信長と弟・信勝によう織田家の家督争いである稲生の戦いでは傷を負いながらも活躍しました。

さらに永禄元年(1558年)にも岩倉城主・織田信安の息子・織田信賢との争いである浮野の戦いにも従軍し功績をあげました。

その後の永禄初年頃に新設された赤と黒の信長の親衛隊的存在の直属精鋭部隊である母衣衆の赤母衣隊筆頭に抜擢され、たくさんの与力を与えられたうえ、100貫の加増を受け、同年には従妹であるまつ【芳春院】を室に迎えました。

永禄二年(1559年)信長の同朋衆・十阿弥と諍いを起こし、十阿弥を殺害した罪で出仕を止められましたが、永禄四年の美濃・森部合戦の武功によって罪を許されました。

永禄十二年に家督を継いで荒子城主になった利家は、その後は信長に従軍して各地に転戦しました。

元亀元年(1570年)四月には浅井・朝倉との金ケ崎の戦いでは撤退する信長の警護を担当し、六月の姉川の戦いでは浅井助七郎浅井氏という武将討ち取る功績を上げました。

同年九月には石山本願寺との間に起こった春日井堤の戦いで、退却する味方の中で、ひとり踏みとどまって敵を倒すなど数々の功績をあげています。

越前一向一揆鎮定後の天正三年(1575年)九月、佐々成政・不破光治とともに、同国の南条・今立ニ郡を与えられて府中三人衆と呼ばれ、北ノ庄城主・柴田勝家の目付を命じられました。

その後、勝家を司令官とする北陸方面軍の有力武将として北陸の平定戦に従い、勝家の信頼も厚くなるなか、天正九年十月には能登を宛がわれて七尾を居城としました。

天正十年の本能寺の変時は、上杉景勝軍の籠る支城・越中の魚津を攻略中で、羽柴秀吉と明智光秀との山崎の戦いには参加できませんでした。

その後勝家と秀吉が天下分け目の戦い(賤ヶ岳での戦い)を演じたとき、勝家の軍勢にいた利家は、戦いの最中に敵前逃亡して秀吉の勝利に貢献した。

勝家滅亡後に、秀吉から加賀二郡を加増され、金沢城に移り、加賀百万石の礎を築き、以後は秀吉の天下平定戦に従い、晩年は豊臣政権の五大老に列しました。

慶長三年(1598年)八月十八日秀吉は、利家らに嫡子である秀頼の将来を繰り返し頼んで没したのちの慶長四年元旦、諸大名は伏見に出向いて秀頼に年賀の礼を行い、利家は病気をおして出席し傅役として秀頼を抱いて着席しました。

しかし間もなく家康が亡き秀吉の法度を破って有力武将と婚姻政策を進めると、利家はこれに反発し、諸大名は家康・利家の両屋敷に集結する騒ぎとなりました。

ただ家康も利家と対立することを不利と考えて和解し、騒ぎは収まりましたが、その後利家の病状は悪化し、最後は伏見の屋敷にて六十二歳の人生に幕を閉じました。

法名は高徳院桃雲浄見、墓所は金沢市の野田山に葬られています。