≪生没年・人名≫
天文4年(1535年)~天正13年(1585年)
五郎左衛門(ごろうざえもん)、惟住(これずみ)。

≪事績≫
丹羽氏は尾張国春日井郡の豪族で、室町期から戦国期にかけて、代々、尾張守護斯波(しば)氏に仕えており、織田氏とは同格でした。

ところが、織田氏では信長の父・信秀のときに急速な成長発展をとげたため、丹羽長政は織田氏の下に付いたが、その長政の子が長秀で、幼名は万千代といいました。

天文十九年、長秀が十六歳になった時に信長に仕え、信長は一つ年上の十七歳なので、いわゆる御学友という立場でありました。

天文二十二年(1553年)の海津表の戦いがその初陣といわれており、永禄三年(1560年)の桶狭間の戦いにも従軍したといわれています。

尾張一国時代から武将として美濃の経営に活躍しており、永禄十一年、信長が足利義昭を擁して上洛の軍をおこしたときも長秀は従軍し、佐久間信盛・木下秀吉と箕作城を攻めています。

ついで京都に進駐し進駐して、京都周辺の政治にも関与し、さらに信長からの命によって、松井有閑とともにいわゆる「名物狩り」の奉行として、京都や堺で天下の名器を集めました。

これ以降も各地に転戦する一方で、天正元年(1573年)五月には佐和山で長さ三十間の大船の建造奉行を務め、天正四年の安土築城にあたっては普請の総奉行を命じられました。

こうした功績が認められ、天正三年七月には信長の奏請により朝廷から「惟住」の姓を賜りましたが、この頃は佐和山周辺のほかに、若さにおける権限を有していたと推測されており、小浜に在城していたといわれています。

というのも同国内には各寺社領を安堵する判物が散見されており、天正九年の馬揃えには若狭州を率いて参加しています。

その馬揃えでは信長家臣団の有力者である柴田勝家は北陸に、羽柴秀吉は中国地方に出陣していたこともあり、その二人を除く家臣のなかでは長秀が最も上位にあったため、第一番に入城しています。

皇居横で繰り広げられ、天皇も見物するという信長にとっては一世一代の晴れ姿であり、家臣団統制の完成とその威力を内外に印象付けるためのデモンストレーションとなったこの馬揃えで長秀が第一番に入城したことは、それだけ長秀の位置をアピールしたことになりました。

このように元亀年間までは、信長の代表的家臣であった長秀でしたが、若狭に封じられたあとは、長秀の出世は頭打ちの感が否めず、遊撃軍団の司令官として諸所での戦いに参加するが、単独で遊軍を率いたという機会は一度もなく、最後まで手伝い要員にすぎませんでした。

ただ、安土城建築の総奉行を務めたことからも分かるように、戦闘を離れた場での著しい活躍がありました。

本能寺の変ののち、羽柴秀吉らとともに明智光秀を討伐し、ついで柴田勝家の滅亡によって、その旧領を獲得して北ノ庄を居城とし、領国は百二十万石余にも及びました.

長秀は同城で病没しましたが、死の二日前に秀吉に遺書を送り、跡目相続者の選任を任せており、死に臨んでは病死を忌み嫌い、自ら腹を切って五十一歳の生涯を終えています。

法名は総光寺大隣宗徳で、墓所は福井市総光寺にありますが、その生涯の中で、近江志賀の陣中にあった元亀三年(1572年)に「御成敗式目」を筆写したことは注目出来ます。