≪生没年・人名≫
天文11年(1542年)~慶長5年(1600年)
右馬允(うまのじょう)、大隅守。

≪事績≫
九鬼嘉隆は、天文十一年(1542年)志摩国英虞郡を拠点とする波切城で、定隆の三男として生まれました。

天文二十年(1551年)、定隆の死去によって、家督は長兄である浄隆が継ぎましたが、永禄三年(1560年)、志摩の地頭のうち十二人が伊勢国司・北畠具教の援助を受けて田城城を攻めました。

嘉隆は城主・浄隆を助けていたものの、浄隆は戦の最中に死亡してしまい、九鬼側は敗退してしまいました。

嘉隆らの残党は朝熊山へ逃亡しましたが、その後滝川一益の仲介によって嘉隆は、桶狭間の戦いに勝利した織田信長に仕えたとされます。

永禄十二年(1569年)、信長が北畠具教を攻めた際、嘉隆は水軍を率いて北畠の支城である大淀城を陥落させるなどの活躍をしたので、正式に織田家の家臣団の一員として迎えられました。

天正二年(1574年)七月、伊勢長嶋一向一揆討伐の際は、水軍を率いて海上から射撃を行うなどして南伊勢の北畠氏を継いだ信雄(のぶかつ)を援護し、敵陣攻略に活躍しました。

天正四年(1576年)、石山本願寺側についた毛利水軍600隻に対して、織田水軍は300隻にて摂津・木津川沖で戦いましたが、多くの船を焼かれて敗戦を喫しました【第一次木津川口の戦い】。

この敗戦に怒り狂った信長は、嘉隆に対して燃えない船を造るように命じた結果、嘉隆は船に鉄を貼った鉄甲船を建造しました。

天正六年(1578年)十一月、伊勢大湊で建造した甲鉄船六隻を回航し、大阪救援に来た毛利水軍を撃ち破り、大阪湾の制海権を握りました【第二次木津川の戦い】。

嘉隆はこの功によって、信長から志摩七島に加え、摂津野田・福島などの七千石を加増され、合計三万五千石を領する大名となりました。

その後も嘉隆は堺の津に駐在していましたが、天正七年正月に安土で年賀を済ませると暇を賜り、下国を許されたうえ、さらに茶の湯も許され、同年十二月八日には津田宗久らを招き茶会を開いています。

天正十年(1582年)六月、信長が本能寺の変で死去した後、織田信雄に仕えましたが、天正十二年(1584年)の小牧・長久手の戦いの際に滝川一益の誘いによって羽柴秀吉に寝返り、松ケ島城の海上封鎖、三河国沿岸の襲撃、蟹江城の合戦に参加しています。

同年、蒲生氏郷が南伊勢に配されると嘉隆は氏郷の与力として配属されるが、その後も秀吉軍の水軍の頭領として重用され、天正十五年(1587年)の九州征伐や、天正十八年(1590年)の小田原合戦などで活躍しました。

慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いのときは、子・守隆(もりたか)と別れて西軍に属し、どちらが負けても家名を存続されるという方針をとりました。

守隆が徳川家康に従って会津征伐に赴いている間に、鳥羽城を落とし、八月二十四日の安濃津城の戦いの勝利にも貢献しましたが、九月十五日の本戦で西軍が敗れると、鳥羽城を放棄して答志島に逃亡しています。

守隆は家康と会見し父の助命を嘆願し、守隆の功績に免じて認められましたが、守隆の急使がそれを嘉隆に伝える前に九鬼家の行く末を案じた家臣の勧めによって自害し五十九歳の生涯を閉じました。