≪生没年・人名≫
明応元年(1492年)五月十日~天文22年(1553年)閏正月十三日
狛千代丸、中務大輔(なかつかさたいふ)。

≪事績≫
平手政秀の生い立ちや若いころの状況も不明ですが、少なくとも古くから尾張にある裕福な豪族だったといわれています。

織田信秀の重臣として主に外交面で活躍した平手政秀は、信秀・信長の二代に仕え、尾張国春日井郡にあった志賀城の城主でした。

信長誕生とともに宿老となり、天文十二年(1543年)信秀の名代として上洛し、朝廷に皇居の築地修理料四千貫を献上するなど朝廷との交渉活動も担当しています。

信長が那古野(なごや)城を譲られたとき、林貞秀に次ぐ「ニ長(おとな)」としてつけられ、天文16年(1547年)には後見役として信長の初陣を滞りなく済ませています。

さらに翌天文17年(1548年)には争い中であった美濃の斉藤道三【利政(としまさ)】との和睦を成立させ、道三の娘・帰蝶との婚約を取りまとめています。

そんな平手政秀ですが、天文二年(1533年)、すなわち信長誕生の前年に尾張を訪れた公家の山科言継は、政秀邸の造作に目を見はり、数寄の座敷の見事さに驚嘆するほど立派な屋敷に住んでいました。

また平手政秀は、東国には稀な文化人で、「古今集」に通じ、言継と和歌会を行うなど文芸にも造詣が深かったといわれています。

しかし信秀の死後、信長が家督相続した翌年、「信長公記」の首巻によれば、政秀は信長と次第に不和になり、信長の実直でない様を恨んで切腹したといわれている。

しかしながら、実際に不和の原因を作ったのは政秀の長男・五郎右衛門で、信長が五郎右衛門の所有する駿馬を所望したが、それを拒否したのを信長が逆恨みしたのが原因とも考えられています。

さらにその他にも、以下のような説も唱えられています。
① 信長の奇行を憂いて、それを自身の死で諌めた。
② 先程述べたように政秀の長男の駿馬の献上拒否や万松寺での信秀の葬礼を放棄するなど信長との政争。
③ 信長の弟・信行に家督を継がそうと謀った林秀久・通具兄弟や信行の後見人である柴田勝家との対立

政秀の死後も信長の行状は改まらなかったものの、信長は政秀の死後に沢彦宗恩を開山とした政秀寺を春日井郡小木村に建立し、法名は政秀寺殷功案宗忠大居士として政秀の菩提を弔っています。

ちなみに菩提寺の政秀寺及び墓碑は平和公園政秀寺墓地に移転しており、首塚は名古屋市西区中小田井の東雲寺にあります。

なお、「信長公記」によると政秀には、五郎右衛門・監物・甚左衛門という三人の男子があったとされているが、系図などでは子は平手久秀、孫には平手汎秀がいたとされています。

「信長公記」に挙げられている三人の子供が誰に当てはまるかは見解が分かれており、系図の位置が不明確な平手長政(孫右衛門)という人物を長男である五郎右衛門にするという場合もあれば、五郎右衛門は養子で弟の政利のことだとする説もあります。

あと、政秀の娘である雲仙院は、信長の弟である織田長益【有楽斎】の正室に収まっています。