≪生没年・人名≫
?~天正八年(1580年)十月十五日?
新五郎、佐渡守。一般には「通勝(みちかつ)」と伝わっているが誤りで正しくは秀貞であり、松永久秀の家臣である林通勝と混同されたと考えられています。

≪事績≫
父の名前は不詳ですが、養父は林九郎勝隆といわれており、その貞秀は織田信秀に仕えて重臣となりました。

信秀がまだ少年だった信長に那古野(なごや)城を譲ったが、そのとき四人の家老がつけられて、林は「一長(いちおとな)」と呼ばれ、その筆頭で、ちなみに二番家老は平手政秀でした。

天文十五年(1546年)に行われた古渡城での信長の元服では介添え役を務めたものの、当時の織田家臣団のほとんどがそうだったように、秀貞も信長の奇行には頭を悩ませていました。

天文二十一年(1552年)に信秀が死去すると、信長の弟・信勝(信行)の擁立に向けて画策を始めました。

弘治元年(1555年)に信長が織田信友を殺害して清州城を占拠すると、貞秀は那古野(なごや)城の留守居役に任じられました。

その後、織田の諸分家をまとめ上げるなど、戦国大名として頭角を現し始めた信長に対して秀貞の不安は解消されず、自身の弟・美作守通具や信勝(信行)付の柴田勝家と謀って、信勝に家督を取らそうとしました。

しかし弘治二年(1556年)、稲生(いのう)の戦いで信長に敗北しましたが、信長に許されて老臣の地位に留まりました。

もともと軍人というよりは政治家であった貞秀は、その後は織田家の家宰として清州同盟の立会人等の外交面や行政面を中心に活動しました。

さらに信長が発給した政治的文書には常に署名しており、永禄十一年(1568年)の信長上洛に従って、天正元年(1573年)の将軍・足利義昭との抗争の際には、和平の起請文にも織田方の年寄として、佐久間信盛や柴田勝家らと共に名を連ねています。

ただまったく軍人として働きがなかったわけではなく、天正二年(1574年)の伊勢長嶋一向一揆の攻略や、天正六年(1578年)の播磨神吉(かんき)城攻めに参加していますが、このころは信長の嫡男・信忠に付属していたようです。

公家の山科言継の「言継日記」によると、言継が信長に拝謁する際には、貞秀が常に奏者・取次役を果たしていたといわれ、信長が開く茶会においても秀貞は他の重臣とともに招かれていました。

また、天正七年(1579年)に安土城の店主が完成した際には、信長は秀貞と村井貞勝の両名にだけ天主の見物を許しており、少なくとも追放の前年までの貞秀と信長の関係は良好でした。

天正八年(1580年)八月十七日、尾張時代の信長廃嫡問題を譴責されて追放処分を受け、その後は京都に潜伏して南部但馬と改め、安芸の国に身を移したりして余生を過ごしたとされていますが、追放された時点で高齢だった貞秀は、追放から2ヶ月後の十月十五日に死亡しています。

法名は養林寺で、清州の養林寺に葬られ、愛知県西春日井郡西春町沖に邸宅跡が残っています。

なお、子息の新二郎は天正元年十月二十五日の伊勢長嶋一揆攻めで戦死しており、その子孫は尾張藩士として存続しました。