≪生没年・人名≫
大永5年(1525年)~慶長13年(1608年)
五郎八(ごろはち)、兵部卿法印(ひょうぶきょうほういん)。

≪事績≫
金森氏は美濃源氏土岐氏の支流で、応仁の乱にて西軍として活躍した美濃守護・土岐成頼の次男である大桑定頼の次男・金森定近が一族を連れて美濃を離れ、近江国野洲郡金森に居住し、金森采女を称したことに始まりました。

大永四年(1524年)金森長近は、金森定近の次男として美濃国に生まれ、信長に仕えたのは早く、始めは可近と名乗りましたが、信長から偏諱(へんき)を与えられ長近と改めました。

馬廻りで赤母衣衆の一人でしたが、小部隊指揮官といったところで、天正三年(1575年)五月の長篠の戦いでは、徳川家康の臣・酒井忠次(ただつぐ)とともに鳶巣(とびのす)砦を攻略し、その戦功によって刀を授けられました。

同年八月、温見峠越えをして越前大野入りした長近は、越前一向一揆殲滅(せんめつ)し、その功によって越前大野郡の三分の二を与えられました。

その後、柴田勝家の北陸方面軍に属しましたが、天正六年信長に反逆した荒木村重征伐に従軍し、天正七年十二月には村重一族成敗の奉行となりました。

天正九年三月には越中に出兵し、天正十年(1582年)の武田勝頼征伐には飛騨口の大将を務めるなど信長の直参として高い地位にありました。

同年二月、従四位下・兵部大輔となり、その後四位下兵部卿となるが、本能寺の変で信長が家臣の明智光秀に討たれ、嫡子・信忠とともに討ち死にすると、剃髪して兵部卿法印素玄と号しました。

その後、羽柴秀吉と柴田勝家が対立すると柴田側に属し、天正十一年(1583年)、賤ヶ岳の戦いで、当初は勝家陣営で秀吉に対峙していましたが、前田利家と行動を共にした長近は、戦わずして敗走し、秀吉の傘下に入りました。

以後、羽柴秀吉の下で、飛騨に侵略、三木(みつぎ)氏を滅ぼし、飛騨を平定させ、天正十四年(1586年)に飛騨一国を宛がわれて、高山を居城としましたが、それが現在でも観光地として名高い「飛騨高山」となります。

禅宗と茶道に造詣が深く、文禄三年(1594年)頃には秀吉の御伽衆を務めていた長近ですが、慶長五年(1600年)、関ヶ原の合戦では養子・可重とともに東軍に与し、戦後美濃などにも所領を得て、六万千石を領しました。

その際、戦に勝利した徳川家康を大津の陣に訪問した本願寺教如が、長近に宛てた文書が近年発見され、教如上人を家康に紹介したのが長近であったことが判明しましたが、このことが後の慶長十三年(1608年)本願寺の東西分立に繋がることになりました。

長近は、その後京都伏見にて八十五歳でその生涯を閉じ、法名は金龍院要仲素玄で、墓所は大徳寺金龍院になります。

長近は、蹴鞠や茶の湯の才にも恵まれており、秀吉が伏見在城の時は伏見城下の自宅に書院と茶亭を作り、しばしば秀吉を招きました。

さらに茶の湯の宗匠・千利休の弟子として茶会に招かれたり、宗匠・古田織部とも親交があり、家康・秀忠親子からは「気相の人」といわれて信頼されていました。