≪生没年・人名≫
天文18年(1549年)~天正12年(1584年)
藤勝丸(ふじかつまる)、陽舜坊(ようしゅんぼう)。

≪事績≫
代々奈良・興福寺一乗院(いちじょういん)の官符宗徒の嫡男として添下郡筒井城に生まれ、父・順昭の死後わずか二歳で乳児のうちに筒井家当主になりました。

永禄九年(1566年)に興福寺で得度し、陽舜坊順慶と称しましたが、その間の永禄二年には多門山城の松永久秀に追われて、堺などに寓居するが、のちに大和に戻って久秀に対抗しました。

ついで元亀三年(1572年)、久秀が信長に反旗を翻したのを機に信長に属して、久秀討伐の大義名分を得て、天正四年(1576年)五月に原田直政の跡を受けて大和の守護に起用され、翌五年三月に筒井城を回復しています。

それ以後は、織田政権の統一戦に従いますが、とくに同年十月に長年の宿敵であった久秀を、織田信忠に従軍して信貴山城に滅亡させました。

天正八年、大和に一国の指出検地が施行されたのちの十一月七日、信長朱印状をもって改めて同国守護職と郡山城を与えられ、十二日に信長の検使から、同城を正式に渡されました。

また天正九年の天正伊賀の乱では他の武将とともに織田信雄に属し、三千七百の兵を率いて、大和から伊賀に侵攻し、蒲生氏郷とともに比自山の裾野に布陣しますが、伊賀衆の夜襲を受けて半数の兵士を失う苦戦を強いられましたが、伊賀の地理に精通している家臣・菊川清九郎に救われています。

そして天正十年六月二日の本能寺の変の際、重臣を招集して評定を行っていた順慶に対して、光秀は自身との縁戚関係や武辺の多い織田軍団の中で数少ない教養人同士であったため味方になるように誘いました。

ただ順慶は積極的に動かなかったものの、消極的ながらも近江に兵を出して光秀に協力、さらにその後も評定を重ね、一度は河内へ軍を差向ける方針を立てたが、結局は籠城しています。

結局は誓紙を書いて羽柴秀吉に臣従しましたが、その際光秀が順慶の動静を見守るために洞ヶ峠に出陣しましたが、この事が後世に歪曲されて喧伝され、順慶が洞ヶ峠で秀吉と光秀の合戦の趨勢を傍観したという、いわゆる「洞ヶ峠」の故事が生まれ、日和見主義の代名詞となりました。

光秀としては、信長への謀反に際して、自らの与力の立場にある近畿地区の大名たちが味方してくれることを期待していましたが、そのうちの順慶(18万石)と細川幽斎(12万石)が味方しなかったことが敗戦の致命傷となりました。

光秀の死後は、秀吉の家臣となって大和の所領は安堵され、天正十二年には秀吉に従って小牧・長久手の戦いに出陣しましたが、発病して八月六日に京都を経て郡山に帰城するが間もなく三十六歳で病死し、筒井家は養子の定次が継いでいます。

その遺骸を郡山の円証寺に葬られた順慶は、「多門院日記」によると天正三年二月十七日に信長の娘あるいは妹を娶っていますが、その女性は同八年あるいはその翌年に重病の末に死亡しています。

さらに順慶の重臣だった島左近は順慶の死後、跡を継いだ定次と上手くいかず筒井家を離れましたが、後に石田三成の家臣となって、関ヶ原の戦いに参加しました。