≪生没年・人名≫
大永3年(1523年)~元亀元年(1570年)
三左衛門(さんざえもん)。

≪事績≫
森長可(ながよし)や成利(なりとし)【蘭丸】の父である可成は、美濃出身といわれており、「兼山町史」によると若年の頃に美濃守護・土岐頼芸に属していましたが、天文二十一年(1552年)頃に頼芸が斉藤道三に追放された時の戦で流浪の身になり、間もなく信長に仕えました。

永禄三年(1560年)五月の桶狭間合戦の時には、可成は信長軍の一団に加わり、抜群の戦功を立てたことにより、信長に見出されました。

可成にとってはこれが立身出世の契機となったわけであるから、その戦で着用した鎧は森家重代の宝とされ、今日では森家ゆかりの赤穂市の大石神社に所蔵されています。

永禄十年九月、斉藤龍興の居城であった稲葉山城へ入り、城下の井ノ口を岐阜と改称した信長は、尾張・美濃の国主となっていよいよ本格的に上洛作戦に取り組むことになりましたが、その頃の可成は可児郡兼山城主になっています。

信長による上洛作戦で可成は九月十二日からの箕作城攻めに参加し、翌十二年八月の伊勢大河内城攻略戦にも加わっています。

永禄十三年(元亀元年)四月からの越前朝倉義景攻めでは、四月二十五日の越前敦賀の天筒山攻撃に、柴田勝家・坂井政尚・池田恒興とともに可成も先陣を承って激戦を繰り返して落城させましたが、その際に若干十九歳の嫡子・伝兵衛可隆を亡くしています。

その後浅井長政の裏切りにより撤退した信長軍は、浅井・朝倉・六角の連合軍に備えるため、志賀宇佐山砦に可成、長原城に佐久間信盛、長光寺城に柴田勝家、安土の砦に中川清秀、長浜城に羽柴秀吉を入れて応急の体勢を整え、同年六月十九日には長浜攻めのため岐阜を発ちました。

六月二十八日の姉川の戦いでは、浅井軍八千の猛攻にあって、織田先陣の一番隊・坂井政尚勢が崩れ、二番隊・池田恒興勢、三番・蜂屋勢、四番・佐久間勢も破れましたが、この危機に当たって、五番隊の森可成勢三千は一丸となって浅井勢の猛攻を受け止め、必死で支えたこともあり、信長軍が勝利しました。

同年九月十三日、今度は大坂石山本願寺宗徒や根来・雑賀の一向宗二万余人が信長軍に戦いを仕掛ける一方、石山本願寺と呼応した浅井・朝倉軍は湖北から上洛を目指しました。

そのため、近江宇佐山城にいた可成は浅井・朝倉の大軍を一手に引き受けることになりましたが、可成の手勢は三千人で、どうにも阻止できる状態ではありませんでした。

そこで信長は甥の信治と青地駿河守義綱に兵二千を付けて急派し、可成はその兵を三分割して、宇佐山城兵と、志賀・穴太の伏兵、さらに自身の手勢として大軍を待ちました。

十九日、可成と信治の二将は大軍包囲の中で、朝倉軍の朝倉式部太夫景鏡の隊を攻めたてましたが、逆に浅井対馬・同玄蕃の兵二千に側面攻撃を受け、さらに朝倉中務・山崎出羽守・河波賀三郎の隊にも攻撃を掛けられ、浅井長政の本隊もこれに加わったため、ついに両将とも討ち取られてしまいました。

可成の菩提寺は岐阜県兼山町の金山城下にある大龍山可成(かじょう)寺で、戒名は可成寺殿心月浄翁大居士となっています。

なお、可成は京都の行政に奉行の一員として加わり、嫡子・伝兵衛とともに津田宗久や千利休とも交流をもった文化人でもありました。