信長麾下の遊撃軍団である織田一門衆とは
信長の入京以前の親族を信長公記で見てみると、叔父の信光・信次・諸兄の信広・弟の信行・信時くらいです。
そのうち、信長の後ろ盾であった信光、信長と家督を争った信勝、一時守山城主であった信時、いずれも弘治年間(1555~1557年)に非業の死をとげています。
また信勝・信時以外にも、信長には信包・信治・信興・秀成・越中守(中根家養子)・長益・長利と、多くの弟たちがいて、信長入京のころには既に成人していたはずですが、彼らの事績はほとんど伝わっていません。
信包は永禄十一年(1568年)の長野家養子縁組の時、信治・信興は元亀元年(1570年)の討ち死にの時が良質な資料における彼らの初見になります。
天正二年(1574年)の長島一揆討伐戦で、一門衆のうち、信次・信広・秀成、それに従兄弟の信成らが討ち死にし、もともと弱体だった古くからの一門衆が、いよいよ取るに足らない存在になりました。
そのような過程の中で、信長の息男たちが成長し、信長は彼らに軍の統率権・地城支配権などを分け与えていきました。
信長の晩年、一門衆の中で特別の地位を認められていたものは、嫡男信忠、二男信雄、三男信孝、弟信包、そして甥の信澄の五人に絞られました。
信忠は別格ですが、他の四人にしても、郡単位の一職支配権を持ち、一軍団の統率権を委ねられていましたが、今回は織田一門衆としてその中の信忠・信雄・信孝の事績と人物像について述べてみます。
●嫡男・織田信忠
とかく父である信長の陰に隠れがちな信忠ですが、その事績を見ると決して凡庸な継嗣ではありません。
天正二年(1574年)から武田の押さえの役割を担い、松永久秀攻め、播磨救援では主将の任務を果たしました。
信長の晩年、織田総軍を指揮したのは、むしろ信忠の方で、最後の戦いとなった天正十年(1582年)の武田攻めでは、信長が信濃に入る前に信忠の手で武田氏の息の根を止めています。
この直後に信長は、「天下の儀」つまり政権担当者の地位をも信忠に譲り渡す意思を表明しました。
本能寺の変を知った時、信忠には宿所・妙覚寺から逃げ出すという選択肢もありましたが、しかし彼はぶざまな死を避けるため、そこに留まりましたが逃げれば無事に生き延びた可能性が高かったといわれています。
●織田信雄
父に似ぬ無能な男とされていますが、それは伊賀攻めに失敗して父に叱責されたこと、本能寺の変後、安土城を放火した犯人の有力候補とみなされていることが大きいとされています。
十二歳のとき北畠氏の養嗣子となり、十八歳のとき家督を継いだ彼は、伊賀攻めに一度は失敗したものの、天正九年(1581年)には大軍を指揮して制圧に成功しています。
しかし、本能寺の変ののちは羽柴秀吉に利用され、織田家の家督に祭り上げられたものの、実質が伴わないまま、織田家の没落を招いてしまいました。
一度は小牧長久手の戦いで秀吉と対陣しましたが、結局は軍門に下っています。
●織田信孝
わずか十一歳のとき、伊勢国人・神戸(かんべ)氏の養子にされ、十三歳で家督を継ぎ、その後は主に信忠の下に属す形であちこちの戦いに従軍し、本能寺の変直前には、四国討伐軍に総帥に任命されました。
本能寺の変ののち、羽柴秀吉と合流して山崎の戦で父の仇を討ちますが、その後次兄の信雄と織田の家督を争いみすみす秀吉の台頭を許し、秀吉との対立の中で信孝の家臣はことごとく信孝のもとを離れていきました。
結局、信孝は賤ヶ岳の戦い後、秀吉を背景にした信雄のため死に追い込まれています。
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