≪生没年・人名≫
天文5年(1536年)~天正12年(1584年)
勝三郎(しょうさぶろう)、紀伊守、入道号・勝入(しょうにゅう)。

≪事績≫
天文5年(1536年)、尾張織田氏の家臣・池田恒利の子として誕生した池田恒興ですが、母は信長の乳母の養徳院で、信長の乳兄弟(ちきょうだい)でした。

年少より信長の小姓として仕え、桶狭間、美濃攻略などで戦い、永禄六年(1563年)十二月に所領を安堵されました。

その桶狭間の戦いでは、信長よりその抜群の器量を認められ、そこ功によって侍大将に抜擢されて、のちに池田家の家老になった伊木清兵衛や土倉四郎兵衛、森寺清右衛門などを家来にしています。

永禄十二年八月の伊勢・大河内城攻め、ついで元亀元年(1570年)六月の姉川の戦いでは、丹羽長秀とともに、徳川家康に属して功によって犬山城主となって一万貫を与えられています。

また元亀四年(1573年)の填島の戦に出陣したものの、恒興の出世は遅く、信忠(のぶただ)軍団に付属されたりしたが、天正八年(1580年)七月には荒木村重の摂津・花隈城を陥落させました。

その功により摂津国に十二万石の所領を宛がわれ、有岡城を居城としてから、独立した軍団を形成することになりましたが、とはいえ遊撃軍団の司令官にすぎませんでした。

天正十年(1582年)三月、織田・徳川連合軍による甲州征伐では二人の息子を出陣させ、信長から本人は摂津を守るように命じられました。

同年六月二日、本能寺の変の勃発により、信長が家臣の明智光秀に討たれると、中国から大返ししてきた羽柴秀吉に合流し、山崎の戦いで明智光秀を撃破して、織田家の宿老に列しました。

その後、清須会議では柴田勝家に対抗して、秀吉や丹羽長秀とともに織田信長の孫・信忠の息子である三法師を擁立した結果、摂津国のうちで大坂・尼崎・兵庫のうちで十二万石を得て、恒興が大坂城、元助は伊丹城、輝政は尼崎城へと入りました。

翌天正十一年(1583年)の秀吉と勝家による賤ヶ岳の戦いには参加しなかったが、美濃国内にて十三万石を拝領して大垣城に入城し、岐阜城には元助が入っています。

天正十二年(1584年)の秀吉と徳川家康・織田信雄【信長の次男】が戦った小牧・長久手の戦いでは去就が注目されたものの、勝利の暁には尾張一国を約束されたこともあり、秀吉の有力武将として従軍しました。

緒戦で犬山城を攻略したのち、三好信吉・森長可・堀秀政らとともに家康の本湖である三河国を攻めようとした。

しかしながら、家康の急襲に遭い、鞍に銃弾を受けた事が災いとなり、長可とともに戦死しましたが、その戦死の状況は永井直勝の槍を受けたものだといわれています。

享年は四十九歳で、嫡男の元助も討ち死にしてしまったため、家督は次男の輝政が継いでいます。

法名は護国院雄岳宗英で、遺骸は遠江の新居に葬られましたが、のちに京都・妙心寺に護国院を建立して改葬されました。

諱を信輝とした軍記物も残っていますが、信頼できる同時代の史料はありません。