≪生没年・人名≫
大永7年(1527年)~天正10年(1582年)
与兵衛。

≪事績≫
信長に仕えた武将たちは、信長の天下平定戦が進捗するに従って、それぞれ出世していきました。

秀吉のように足軽・小者から大名まで登った例もありますが、河尻秀隆は美濃・尾張・近江などの武士で、織田家の家臣として早くから配下に属し、累進出世した多くの武将のひとりです。

その秀隆の前半生は、謎につつまれてはっきりしていませんが、清洲斯波氏家臣の川尻氏の一族で美濃国にて生まれたといわれています。

早くから織田氏に従い、天文十一年(1542年)八月十日、今川義元と織田信秀が戦った小豆坂の戦いに十六歳で初陣を飾り手柄を立てています。

また永禄七年(1564年)、美濃加治田城攻めに一番乗りの戦功を立て、この頃から信長の近習として重きをなしていき、黒母衣衆二十人の一人に加えられ、筆頭になっています。

その後、永禄十二年十二月、秀隆は美濃勝山城将となりましたが、これ以降「信長公記」や「太閤記」などの諸記録にも秀隆の名が見られるようになります。

天正三年五月、甲斐の武田勝頼の大軍を破った長篠合戦の美濃方面作戦でも大活躍し、信長の嫡男・信忠にかわって軍勢の指揮をとるほどに出世し、その戦いで信長が得た岩村城を五万石の知行高で与えられ、同時に肥前守を叙任された秀隆は、ついに城持ち大名の一員に加わりました。

信長は、甲斐の武田勝頼の討滅を狙っていたが、天正十年二月、木曽義昌が勝頼から離反し、信長に内通したのを契機として、二月三日に配下将兵の甲斐進撃を命じました。

諸将は三方から買いを目指して進撃しましたが、秀隆は信忠の指揮下に入って同じ信長方の滝川一益と行動を共に木曽峠から伊那郡に侵攻しています。

同年三月十一日、秀隆らの兵に追い詰められた武田勝頼は自刃し、その首が信長に届けられたのち、武田家旧領の配分が行われ、先鋒隊を務めた秀隆と一益、森長可、毛利秀頼らが戦功の賞与として大きな知行を受けました。

特に秀隆には、穴山信君の甲斐国河内領を除く甲斐四郡、河内領の代わりとして信濃国諏訪郡が与えられ、一躍二十一万石余の国持大名へと出世しました。

甲斐国主として甲府(府中)に入城した秀隆の国主としての事績は、その統治期間が二か月余りと短かったためにほとんど記録が残っていません。

ただ、旧武田氏の家臣が信仰していた寺院や神社の焼き払いや、厳しい武田旧臣の残党狩りなど、国主としていささか厳しすぎる失政を行った暴君的なイメージがあるようです。

やっと甲斐一国の国主になった秀隆に大変な事件が起こったのは、入国して二カ月余りしかたっていない六月二日で、それは京都の本能寺で主人である信長が明智光秀の奇襲にあって自刃したというものでした。

そこで徳川家康が、武田旧臣による国人一揆が起こる前に秀隆を逃がしてやろうと家臣を遣わしたところ、自分を攻めに来たと思った秀隆はこれを殺害し、ここに徳川方に心を寄せていた武田旧臣たちが一挙に打倒秀隆の兵を挙げました。

周囲を敵に囲まれた秀隆は二千余の手兵をもって一揆勢と戦いましたが、ついに六月十八日、府中の岩窪に追い詰められ首を打たれて、五十六歳の生涯を終えました。

秀隆の菩提寺は、岐阜県坂祝町の長蔵寺で、秀隆の画像が現在も残っています。