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軍団の黒母衣衆のひとり「佐々成政(ささなりまさ)」

≪生没年・人名≫
天文5年(1536年)~天正16年(1588年)閏五月十四日
内蔵助、陸奥守。

≪事績≫
佐々成政の佐々氏は、尾張国春日井比良城に拠った土豪で、宇多源氏佐々木氏の一族というが明確ではありません。

兄に政次、孫介がいましたが、相次いで戦死してしまったため、永禄3年(1560年)に家督を継ぎ、比良城主となりました。

織田信長に仕えて、黒母衣衆の一人として頭角を現した成政は、永禄四年(1561年)美濃攻めに従軍し、信長の上洛後は同十二年の伊勢・北畠氏攻略、ついで浅井・朝倉両氏との抗争に従軍しています。

天正三年(1575年)九月、越前一向一揆討伐の功によって柴田勝家の目付となり、前田利家・不破光治とともに越前の今立・南条両郡を宛行われ、府中三人衆と呼ばれました。

その府中三人衆は勝家の与力とはいえ、半ば独立した織田軍の遊撃的存在で、石山合戦や播磨国平定、荒木村重討伐などに従軍しています。

その後、北陸の平定作戦の功により、同九年二月には越中を与えられ、富山を居城とした成政は、同十年の本能寺の変時は、勝家に従って越中の魚津で上杉景勝軍と対陣中でした。

変後、清須会議において勝家と秀吉との、織田家の実権争いが表面化すると、成政は勝家方に付きましたが、上杉景勝への備えのため、越中を動けませんでした。

賤ヶ岳の戦いには叔父・佐々平左衛門が率いる600名を援軍に出しましたが、合戦中の利家の寝返りや、景勝の圧迫などのため、娘を人質に出して剃髪することによって秀吉に降伏し、所領の越中を安堵されました。

翌天正12年(1584年)に小牧長久手の戦いが勃発すると、織田信雄や徳川家康と結んで羽柴秀吉に対抗し、秀吉方に立った利家の末森城を攻撃しました。

この時期は、越後国の景勝とも対立していたために二正面作戦を強いられ、苦戦が続いており、秀吉と信雄との和議が成立して家康が停戦すると、厳冬の飛騨山脈(北アルプス)・立山山系を自ら超えて浜松へと踏破し、家康に再挙を家康にも再挙を促しまた。

しかし家康の説得に失敗し、織田信雄や滝川一益からの心よい返事は貰えなかった秀吉は、翌天正13年(1585年)、秀吉自ら越中に乗り出し、富山城を10万の大軍で包囲しています。

するが、同十三年(1585年)八月に秀吉の遠征を受けて降伏し、所領をわずか一郡に削減されました。

同十五年五月、秀吉の九州征伐に従軍して肥後一国を与えられましたが、国人一揆の蜂起により、その失政を譴責され、翌年に摂津の尼崎で切腹しました。

出世して国持ちとなった佐々成政は、前田利家と経歴が良く似ており、二人は若い頃からのライバルでしたが、ただ常に成政の方がわずかに先んじていました。

そんな二人の運命を分けたのは、羽柴秀吉との関係で、利家が秀吉に自分の将来を預けたのに対し、成政は徹底的に秀吉に反抗したことで、差ができてしまったといえます。

享年は五十三歳で、法名は成政寺庭月洞閑、墓所は尼崎の法園寺と京都の大徳寺にあります。

北国軍団の総司令官「柴田勝家(しばたかついえ)」

≪生没年・人名≫
大永2年(1522年)~天正11年(1583年)
権六(ごんろく)、修理亮(しゅりのすけ)。

≪事績≫
柴田勝家についてはその父親さえはっきりしないが、その祖は清和源氏斯波氏の流れで、始祖の修理太夫義勝が越後国新発田(しばた)城に居城したことから柴田を姓にしたと「太閤記」に書かれているが疑わしい。

勝家の史料における初見は、天文二十年(1551年)に没した織田信長の父・信秀の葬礼の共にみえる「家臣柴田権六」となります。

その後、信長の弟・信行の末森城に出仕したが、弘治二年(1556年)八月、那古野城を守る林秀貞・通具は勝家と申し合わせ、ひそかに信長を殺し、信行を擁立しようと画策しました。

しかし、稲生の戦いで敗れたあと、信長に心服し、翌弘治三年より忠実な家臣として仕え、逆に信行が謀反を企てていることを信長に進言し、同年十一月二日信長は信行を誘殺しています。

そして永禄十二年八月、伊勢の北畠具教攻略に従った勝家は、大河内城包囲の東側に不破光治・佐々成政らとともに出陣したが、これをみても後の越前衆の陣容が当時から固められていたのがわかります。

明けて、元亀元年(1570年)四月には越前朝倉討伐に従って手筒山城を攻めるが、近江・浅井長政の裏切りにより撤退し、勝家は近江・長光寺城に在城して備えの役目を果たしています。

元亀四年(1573年)八月、信長とともに浅井氏攻撃に向かった勝家は、浅井氏救援にきた朝倉義景攻略の先手として佐久間信盛らとともに越前に向けられ、八月二十日には義景を、二十七日には浅井久政・長政親子を自害させました。

朝倉滅亡後の越前では、信長と対立する本願寺からの働き掛けもあり、一揆が勃発、加賀一向一揆の加勢もあって、一向一揆勢が支配していました。

天正三年(1575年)七月、勝家はその一向一揆勢攻略のために出陣し、遅れて八月に到着した信長軍とともに一向一揆殲滅作戦を実施した結果、越前及び加賀二郡(能美・江沼郡)を平定しました。

信長は同年九月、諸将に平定した越前を分封、勝家には越前一国の八郡・四十九万石を与え、そのうちの府中二郡を不破光治・佐々成政・前田利家を府中三人衆として治めさせました。

その後の勝家は信長北国衆の首領としての位置を占め、加賀一向一揆、上杉勢に対処することになり、天正十年(1582年)には一揆勢の立て籠もる富山城を勝家・成政・利家らと包囲し、落城させました。

そして、上杉属城の松倉・魚津へ向かい、五月二十六日には松倉城が落城、六月三日には魚津城を落城させ上杉方大将十三人を討ち取りましたが、しかし前日の二日に信長が本能寺で明智光秀に討たれたという知らせを七日に受け、勝家は居城の北庄へ帰陣しました。

信長の死後、羽柴秀吉との対立が深まる中で勝家は、「私と秀吉とは元々仲が良かったはず」「これから一緒に織田家を盛り立てよう」と呼びかけるなど、織田家を離れて天下を狙う秀吉の野望が理解できず、このあたりが戦国武将・柴田勝家の限界だったといえます。

結局、天正十一年四月、勝家は秀吉との賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いに敗れ、二十四日北庄城天守閣に火を放って、室となっていた市(信長妹)とともに自害して果てました。

法名は墔鬼院殿台岳還道大居士で、西光寺に墓があり、柴田神社は四月二十四日を祭日としています。

なお、ルイスフロイスの書簡には「甚だ勇敢なる将軍にして全生涯を武道に委ねた」と書かれています。

奈良興福寺の官符宗徒「筒井順慶(つついじゅんけい)」

≪生没年・人名≫
天文18年(1549年)~天正12年(1584年)
藤勝丸(ふじかつまる)、陽舜坊(ようしゅんぼう)。

≪事績≫
代々奈良・興福寺一乗院(いちじょういん)の官符宗徒の嫡男として添下郡筒井城に生まれ、父・順昭の死後わずか二歳で乳児のうちに筒井家当主になりました。

永禄九年(1566年)に興福寺で得度し、陽舜坊順慶と称しましたが、その間の永禄二年には多門山城の松永久秀に追われて、堺などに寓居するが、のちに大和に戻って久秀に対抗しました。

ついで元亀三年(1572年)、久秀が信長に反旗を翻したのを機に信長に属して、久秀討伐の大義名分を得て、天正四年(1576年)五月に原田直政の跡を受けて大和の守護に起用され、翌五年三月に筒井城を回復しています。

それ以後は、織田政権の統一戦に従いますが、とくに同年十月に長年の宿敵であった久秀を、織田信忠に従軍して信貴山城に滅亡させました。

天正八年、大和に一国の指出検地が施行されたのちの十一月七日、信長朱印状をもって改めて同国守護職と郡山城を与えられ、十二日に信長の検使から、同城を正式に渡されました。

また天正九年の天正伊賀の乱では他の武将とともに織田信雄に属し、三千七百の兵を率いて、大和から伊賀に侵攻し、蒲生氏郷とともに比自山の裾野に布陣しますが、伊賀衆の夜襲を受けて半数の兵士を失う苦戦を強いられましたが、伊賀の地理に精通している家臣・菊川清九郎に救われています。

そして天正十年六月二日の本能寺の変の際、重臣を招集して評定を行っていた順慶に対して、光秀は自身との縁戚関係や武辺の多い織田軍団の中で数少ない教養人同士であったため味方になるように誘いました。

ただ順慶は積極的に動かなかったものの、消極的ながらも近江に兵を出して光秀に協力、さらにその後も評定を重ね、一度は河内へ軍を差向ける方針を立てたが、結局は籠城しています。

結局は誓紙を書いて羽柴秀吉に臣従しましたが、その際光秀が順慶の動静を見守るために洞ヶ峠に出陣しましたが、この事が後世に歪曲されて喧伝され、順慶が洞ヶ峠で秀吉と光秀の合戦の趨勢を傍観したという、いわゆる「洞ヶ峠」の故事が生まれ、日和見主義の代名詞となりました。

光秀としては、信長への謀反に際して、自らの与力の立場にある近畿地区の大名たちが味方してくれることを期待していましたが、そのうちの順慶(18万石)と細川幽斎(12万石)が味方しなかったことが敗戦の致命傷となりました。

光秀の死後は、秀吉の家臣となって大和の所領は安堵され、天正十二年には秀吉に従って小牧・長久手の戦いに出陣しましたが、発病して八月六日に京都を経て郡山に帰城するが間もなく三十六歳で病死し、筒井家は養子の定次が継いでいます。

その遺骸を郡山の円証寺に葬られた順慶は、「多門院日記」によると天正三年二月十七日に信長の娘あるいは妹を娶っていますが、その女性は同八年あるいはその翌年に重病の末に死亡しています。

さらに順慶の重臣だった島左近は順慶の死後、跡を継いだ定次と上手くいかず筒井家を離れましたが、後に石田三成の家臣となって、関ヶ原の戦いに参加しました。

一時は織田軍指折りの武将だった「原田直政(はらだなおまさ)」

≪生没年・人名≫
?~天正4年(1576年)
正勝、重友、九郎右衛門(くろうえもん)、賜姓、任官して原田備中守。

≪事績≫
初め姓は塙(ばん)と称し、尾張国春日井比良村出身といわれ、はじめは信長の馬廻りで、赤母衣衆の一人でしたが、信長が岐阜に移るのに伴って岐阜に移り住みました。

永禄十一年(1568年)九月には信長の上洛に従い、京都の政治に関与し、吏僚として畿内の政務を担当しています。

また直政の妻は柴田勝家の娘、妹の直子は信長の側室で、信長の庶長子・信正の母親ともいわれています。

そんな直政は蘭奢待下賜の際に御奉行(監査役)を務め、天正二年(1574年)五月には山城の守護に補され、ついで翌三年(1575年)三月には大和の守護も兼ねて二か国を支配していました。

さらに全盛期にあっては上記の通り、全権を任されたわけではないにせよ南山城・大和の二か国の統治権に加えて、河内国の城割を行うなど同年代の宿老クラスである柴田勝家に勝るとも劣らない三か国に及ぶ広い範囲の支配権を持っていました。

もちろん原田直政は戦でも働いており、対石山本願寺攻め、伊勢長島攻め、高島城の戦い、越前一向一揆征伐にも従軍し戦功を立てています。

「信長公記」によると天正三年五月の長篠の戦いでは、佐々成政・前田利家・野々村正成・福富秀勝とともに鉄砲奉行に任じられたとされています。

天正三年には信長の奏請によって、羽柴秀吉・明智光秀・梁田広正らと共に叙任されて備中守に任ぜられ、さらに原田姓を賜りました。

ちなみに原田姓は九州の名族であり、同様に丹羽長秀は惟住姓、明智光秀は惟任姓、といったいずれも九州の名族の姓を賜っています。

そして直政は、翌天正四年(1576年)から明智光秀・荒木村重・細川藤孝・三好康長らと共に石山本願寺攻撃の主力となって出陣しました。

村重は尼崎より海路をとって北野田の砦を抑えて河川を封鎖し、光秀と藤孝は森口(現在の守口)と森川に砦を構え、直政は天王寺の要害を固めました。

逆に本願寺側は、楼岸・木津に砦を構えて難波口からの海路を確保していましたが、信長はこの両砦の攻略を命じました。

その命を受け、佐久間信盛は天王寺砦に詰め、両砦への攻撃には第一陣として三好康長と根来衆、第二陣は直政と大和・山城衆という編成であたりました。

しかし本願寺側ではこの動きを事前に察知し、雑賀衆の鈴木重秀が率いる伏兵が待ち構えていたため、木津砦に攻寄ろうとしていた三好康長はあえなく撤退しています。

一方、直政は康長の撤退後も何とか踏みとどまっていましたが、本願寺側から僧兵が攻め寄せてきたため総崩れとなり、直政も伯父・安広や弟・小七郎など一族内の有力な武将とともに乱戦の中で戦死しました。

直政の死によって戦線の崩壊という危機が織田軍に迫りましたが、信長自ら援軍を率いて駆けつけ、足に銃創を負うほどの奮戦によって戦線は再び持ち直されました。

この戦ののち、生き残った直政の一族は敗戦の責任を信長に取らされる形で没落していきました。

なお、直政の戒名は全巧とつけられ、、墓所は尾張大野木の福昌寺に残っています。