≪生没年・人名≫
大永2年(1522年)~天正11年(1583年)
権六(ごんろく)、修理亮(しゅりのすけ)。
≪事績≫
柴田勝家についてはその父親さえはっきりしないが、その祖は清和源氏斯波氏の流れで、始祖の修理太夫義勝が越後国新発田(しばた)城に居城したことから柴田を姓にしたと「太閤記」に書かれているが疑わしい。
勝家の史料における初見は、天文二十年(1551年)に没した織田信長の父・信秀の葬礼の共にみえる「家臣柴田権六」となります。
その後、信長の弟・信行の末森城に出仕したが、弘治二年(1556年)八月、那古野城を守る林秀貞・通具は勝家と申し合わせ、ひそかに信長を殺し、信行を擁立しようと画策しました。
しかし、稲生の戦いで敗れたあと、信長に心服し、翌弘治三年より忠実な家臣として仕え、逆に信行が謀反を企てていることを信長に進言し、同年十一月二日信長は信行を誘殺しています。
そして永禄十二年八月、伊勢の北畠具教攻略に従った勝家は、大河内城包囲の東側に不破光治・佐々成政らとともに出陣したが、これをみても後の越前衆の陣容が当時から固められていたのがわかります。
明けて、元亀元年(1570年)四月には越前朝倉討伐に従って手筒山城を攻めるが、近江・浅井長政の裏切りにより撤退し、勝家は近江・長光寺城に在城して備えの役目を果たしています。
元亀四年(1573年)八月、信長とともに浅井氏攻撃に向かった勝家は、浅井氏救援にきた朝倉義景攻略の先手として佐久間信盛らとともに越前に向けられ、八月二十日には義景を、二十七日には浅井久政・長政親子を自害させました。
朝倉滅亡後の越前では、信長と対立する本願寺からの働き掛けもあり、一揆が勃発、加賀一向一揆の加勢もあって、一向一揆勢が支配していました。
天正三年(1575年)七月、勝家はその一向一揆勢攻略のために出陣し、遅れて八月に到着した信長軍とともに一向一揆殲滅作戦を実施した結果、越前及び加賀二郡(能美・江沼郡)を平定しました。
信長は同年九月、諸将に平定した越前を分封、勝家には越前一国の八郡・四十九万石を与え、そのうちの府中二郡を不破光治・佐々成政・前田利家を府中三人衆として治めさせました。
その後の勝家は信長北国衆の首領としての位置を占め、加賀一向一揆、上杉勢に対処することになり、天正十年(1582年)には一揆勢の立て籠もる富山城を勝家・成政・利家らと包囲し、落城させました。
そして、上杉属城の松倉・魚津へ向かい、五月二十六日には松倉城が落城、六月三日には魚津城を落城させ上杉方大将十三人を討ち取りましたが、しかし前日の二日に信長が本能寺で明智光秀に討たれたという知らせを七日に受け、勝家は居城の北庄へ帰陣しました。
信長の死後、羽柴秀吉との対立が深まる中で勝家は、「私と秀吉とは元々仲が良かったはず」「これから一緒に織田家を盛り立てよう」と呼びかけるなど、織田家を離れて天下を狙う秀吉の野望が理解できず、このあたりが戦国武将・柴田勝家の限界だったといえます。
結局、天正十一年四月、勝家は秀吉との賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いに敗れ、二十四日北庄城天守閣に火を放って、室となっていた市(信長妹)とともに自害して果てました。
法名は墔鬼院殿台岳還道大居士で、西光寺に墓があり、柴田神社は四月二十四日を祭日としています。
なお、ルイスフロイスの書簡には「甚だ勇敢なる将軍にして全生涯を武道に委ねた」と書かれています。